2009年10月アーカイブ

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3ヶ月間「金田伊功を送る会」に集中していたせいか、最近になって反動でボケっとしていることが多い。どうも、やる気が起こらないのでそれこそグダグダの日が続いている。
めし食って、お茶飲んで、だらだらと夕方近くに荻窪すずらん通りを歩く。ふと見上げるとこんな街灯が..。これ、前からあったっけ?どうも思い出せなくて困るが、新鮮な気持ちもするからちょっとボケるのも悪くないかも。それにしてもこの辺に住んで30年にもなろうというのに、今頃気がつくとは重症かもしれない。
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アニドウの上映会を支えてくれた杉本五郎さんが亡くなってすいぶん経ちます。僕はその遺志を継いで、ほそぼそとフィルムコレクターを続けているところです。
今日は、オークションで「原爆の記録映画」を購入しました。アニメーションに限らず、ドラマとか記録映画(ドキュメント)もコレクションに含まれます。
いつの日にか、かつての杉本コレクションを超える規模になれば良いなと夢想しています。その時は(新)杉本コレクションと名乗ることができるでしょう。
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デジタルコンテンツ協会(DCAJ)が設けた審査員特別賞を金田伊功氏が受賞するというので、ご遺族の代わりに贈賞式に出席してきました。(例によって、オレがオレが...と出しゃばったのしょう)
呼ばれたから舞台中央に出て待っていたら、司会の人がこっちを見ないで、「なみきさん?会場にいらっしゃいますか?」と訊いていました。いやあ、小者は目立たなくてだめなあ。
舞台中央で、「ここにいます」と手をあげたのは初めての経験でした。(観客笑)
残念ながら急いでいたのでレセプションには出席せずに小雨の中を退席しました。重いトロフィーは早速ペリカン便で牧子夫人に送ります。


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本当はオープロの話題ですが。今日は、オープロの美しい先輩T久美子さんのグループ展におじゃました。Tさんは現在、九州在住で5年前からこの展覧会を仲間と開催しています。元アニメーターらしくない(らしい?)きれいな日本画を描いています。かつては「ルパン三世 」「グレートマジンガー対ゲッターロボG 空中大激突」「銀河鉄道999」「セロ弾きのゴーシュ」などほとんど全てのオープロ作品で活躍していた、私の頭のあがらない先輩です。
 行かないと大変な(ような氣がした)ので最終日を前に飛んで行ったのです。
今日めでたく就労ビザが発行されたオープロアニメーターのJ君のお祝いも兼ねて、ちょっと飲みました。来年のオープロ40周年への参加、さ来年の福岡での個展へのお誘いを受けてこちらはたじたじ。こちらは元気どころか生きているかも怪しいこの頃、女性はますます元気です。こちらはなるべくエネルギーを使わないようにして生きながらえる他はありません。
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「金田伊功を送る会」の打ち上げを荻窪の新しいお店ogikubo hinataで開催しました。
受付や警備のボランティアの方を中心に33名の参加を得て、スタッフに改めて感謝を表して3時間飲みました。
これにて、金田氏の訃報を聞いてから予定していた一連の行事を一応終了したことになります。だんだんと普通の生活に戻って行くのでしょうか。
あ、今週末にDIGITAL CONTENT EXPO 2009というイベントで、金田伊功氏が「審査員特別賞」を授賞されるそうです。本年の贈賞式は10月24日(土)に東京国際交流館(ゆりかもめのテレコムセンター駅)で行われるということだそうで、写真とかテキストを提供しました。
まだまだ金田逝去の影響は続きますね。
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昨日に続いて横浜へ。今日は日本アニメーション協会主催の"イントゥアニメーション5・イン横浜" を見学に。横浜赤レンガ倉庫2F,3Fで4日間も開催するというおしゃれなもので、潮風もさわやかに広い会場で開放的です。
3Fの上映ホール前では、鉄道写真家の南正時さんが撮りためた作家たちのポートレートが展示され、13時からは氏の長年の秘蔵写真をまじえてトークショーが行われました。
 その後は、久里洋二先生を交えてカフェで団らん、そしてEプロ、Fプロと作品上映を堪能しました。IKIFの「トロルミニカ」、竹清仁氏の「放課後MIDNIGHT」上甲トモヨシ氏の「Lizard Planet」などを僕は楽しみました。久里先生の「人間動物園」「愛」も全く古くないのがすごい。
トリを飾った森まさあき氏の「?」は本人のライブ・パフォーマンス付きの映像だが、本人のウクレレ演奏が面白すぎて、映像がおとなしい感じで負け気味。ライブと映像の掛け合いが見たかったものです。次回は鎗に刺されましょう!
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会社(オープロ)の新人アニメーターがファンだというので「仮面ライダーディケイド」を見ていた。(本当は僕は自分が似ているので水嶋ヒロの出ている「仮面ライダーカブト」のファンである)ゴージャスにCG合成もあり、たくさんライダーは出てくるけれど、ディケイドはちょっとつまらない。なんだかドラマが薄いのは役者が薄いせなのか。昔風のこってりとした役者はおヨビでないのか、みな死んでしまったのか。そんな中で孤軍奮闘なのは写真館の親父、石橋蓮司。時代劇などで狂気のある役など存在感があります。彼が劇場版で死神博士をやったというので興味あるけれど、ちょっと見逃してしまった。僕にとって死神博士といえばやはり故天本英世。以前に有楽町で見かけた時に、意味もなく後を付けてしばらく歩いたものです。天本英世といえば20世紀スペインを代表する劇詩人ロルカ。天本さんがこぶしを振り上げて朗読する姿をテレビでは見た事がある。そうして覚えたロルカという詩人の戯曲を知り合いの人がスタッフで公演するというので横浜にでかけることにした。
TPTシアタープロジェクト・東京の「血の婚礼」。
馬車道駅から歩いてちょっと迷いつつ、劇場に到着。
BankART Studio NYK/NYKホールは改造劇場である。元日本郵船の倉庫は改造され、日本の平和を守る劇場として戦っている、らしい。
「血の婚礼」は実際に起きた殺人事件をもとに、運命と闘う人間の本能の叫びを独自の詩霊で築き上げた、詩と音楽のシュールな世界、とのこと。
若い人たち中心で熱演の舞台でしたが、そんな中で主人公の母親役の大沼百合子さんが本当の主役でしょうか。存在感のある役者さんです。
終わって腹がへって帰路をとぼとぼ歩くとなぜかとつぜんスペイン料理店出現。しかたなく入りました。
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グラフィックデザイナー・イラストレーターの小島武さんが10月4日に亡くなった。
個人的にはちょっとの期間のお付き合いしかなかったけれど、スケールの大きな人柄で、僕の目標とすべき大人の人でありました。
1998年頃に僕はDVDというものに飛びついて、「これからはコレだ!」とばかりに古川タクさんを口説いて第一弾「タクン・フィルムズ」を制作することになりました。
ところがいつまで経ってもジャケットが出来てこないことに業を煮やしタクさんに詰め寄ると、「友人の小島に頼んだ」と言う。その名は良く知らなかったけど、どうやら業界で注目されている大物らしいことが聞こえてくるではありませんか。まず心配したのはギャラで、「そんな枠はアニドウにありませんよ」と言うと「わかったわかった」とタクさんタームで片付けてくれることになった。一安心したけれど、さて、新宿三丁目の事務所へ取りに何回行っても、デザインは完成しなくて、工程はどんどん遅れてしまった。普通なら「いい加減にしてくれ!」という場面だが、壁一面に貼られたプリントアウトを見ながら「どれがいいかな」とか取り組んでいる格好を見せられて、すっかり小島先生のペースにはめられて、飲んで帰るばかりの日が続いた。ある時は内装を変えたという苦労話、ある時は近所の理髪店についての噂話、などなどで煙にまかれた。そして帰りには、へぎそば屋、中華、ワイン酒場などたったひとつの仕事のためにいろいろな所を案内されて楽しく、しかもなんだかいつも奢られてしまっていた。本当はこちらが接待しなくてはいけないのに、気がつくときれいな奥さんがサっと支払ってしまうのだった。
直前の仕事が井上陽水の「九段」というアルバムのアートディレクションで、その出来上がりを見て、いやあ大物だなあと感心して、うちのDVDをやってもらうことを単純に喜んでいたのだが、今日訃報を聞いてから改めてネットなどで調べると、天才イラストレーターとして、また才気走るアートディレクターとして雑誌を手がけたり、松本俊夫監督の「薔薇の葬列」なんていう映画に出たり、とんでもない活躍をしているではないですか。知っていたら、とても頼んだり飲んだりできなかったと遅まきながら思うのです。桑沢デザイン研究所の講師などで、うるまでるびさんなども教えていたんですね。
沢木耕太郎や別役実さんの本の装画や、歌の作詞なんかもやっている。60年代からずーっと活躍しているなんて面白い時代を駆け抜けているから、あんなになんでも面白がる、好奇心丸出しの大酒飲みのおじさんが出来るんですねえ。
人生を楽しむオーラが出まくっていて、僕はホレました。
仕事は一度だったけど、それから「三越名人会川本喜八郎の世界」(写真)など何度かアニドウのイベントにも来てもらって、細々と親交を続けてもらいました。
最近は独り身になって、引っ越しをされてここのところ逢う機会がなったけれど、また少ししたら一緒に飲むんだろうと信じていました。でっかい笑顔と張りのある声を聞く機会がないとは残念の極みです。あっちで飲んでください。たぶん岡本忠成さんと逢えばウマが合うはずです。それでは、また。
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昔のテープを引っ張りだしてきて、簡単なビデオ編集をはじめています。
飯田市の川本喜八郎人形美術館であたらしく「パペットアニメーショウ」の人形展示が始まっていますが、そこで僕が制作した「人形と生きる」というドキュメンタリーの中から「ひともみがきてのちにこそ」「くるしいときのカミだのみ」「おやすみなさいったら」「世間胸算用近頃腹裏表」をビデオ上映することになった。これは、1999年9月の「三越名人劇場」での復活公演を記録したもの。本格的なカメラクルーを雇って制作したもので、不詳私のドキュメンター代表作なのです。撮影しておいて良かった、良かった。(将来こうした用途もあると想定していましたが)
あの公演ではパペットショウ以外のパートで、「三国志」「平家物語」などの人形の紹介もあり、特に三国志の孔明対周瑜の舌戦を再現した寸劇コーナーでは、おかの公夫氏(写真)など人形達を操る真の演技者、操演者たちの技に魅了されたものです。
だから「表」と「裏」版のふたつのドキュメンタリーになっております。そろそろDVDにしようかな?
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やまなし映画祭2009が開催され、「ルパン三世 カリオストロの城」上映のゲストとして友人の友永和秀氏がトークショーをするというので、のぞいてみた。
他のゲストは、クラリス、ナウシカの島本須美さん、元読売テレビプロデューサーの佐野寿七さん。
ひさしぶりにフィルムで「カリオストロの城」を観賞。ちょっと黄ばんでいたけれど、やはりフィルムはいいです。4ヶ月でこれだけ面白いものが出来るのだから、今後の長編制作を4ヶ月以内に完成という法律でも作ればいいのではないか(?)、と暴論を考えたり。
入場は無料なのに、ゲストをたくさん呼ぶなどなかなか、力の入った良い映画祭でした。
トーク後は友永テレコムアニメーション取締役とNEKO氏の運転するレンタカーで、ドライブ。量がハンパでない食堂「若奴」、夜景を見つつ銭湯温泉「ほったらかしの湯」、手打ちそば屋「専心庵」というすごいコースで甲府を堪能しました。
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友人が入院したので漫画を持ってお見舞いに練馬区光が丘へ初めて来ました。病院に来ると2003年に入院していた時を思い出し、落ち着きません。さっさと逃げて、ショッピングセンターを散策。晴れた空と銀杏並木がきれいでした。病気になると青い空と木々が目にまぶしいものです。
さて、大江戸線乗り口のそばにあるこのボード。「アニメ発祥の地」? うーん。"アニメ"だからいいか。「漫画映画発祥の地」でも「アニメーション発祥の地」でもないからなあ。
"アニメ"="日本のテレビアニメーション"と解釈して「テレビアニメ発祥の地」という意味で捉えれば良いのかな。本当は違うけれど、まあまあ。
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そんなことが有りましたか?

アニドウは一昨年の2007年に設立40周年を迎えました。ということは設立して1年ぐらいで入会している僕の活動歴も今年あたりで40年程度でしょうか。アニドウ歴40年......長いような短いような。ま、アッという間でした。
かつての美少年もこんな?オヤジに成り果てましたが、おかげさまで小・中学時代に引きこもりだった僕もなんとか他人と交流できるように育ちました。これもアニメーションの活動のご利益かなと、関係者のみなさまとアニメーションの神様に感謝しているところです。
苔むすほど毎日毎日アニメーションのことばかりあれこれやってきたので、今やちょっとやそっとではビックリすることもなくなりました。2chに「なみきは金田伊功を送る会で儲けている」と書き込みがあると聞いても(もう読まないので噂ですが)「ほほう...」と感心こそすれ、ムキになることもありません。まことに微笑ましい話題と思うばかりです。
ところがビックリ仰天真珠大王!(by大石郁)こんな僕でも、ええ?と思う発言があったのです。
自分のことなので話題にしすぎと思われましょうが、知人のなかに僕のいい訳を期待している人もいるかなと思い、過敏に反応することにしました。

それは、かつてアニドウで仲間として活動に深く関わっていた富沢洋子さんの文章についてです。富沢さんは現在婚姻後の本名である五味洋子を名乗っていますが、ここでは呼び慣れている旧姓富沢さんと書きます。他の人なら誰が何を書こうとも黙っているところですが....。
さて、富沢さんの連載しているアニメスタイルの「アニメーション思い出語り/その66」はなんとありがたくも最新の回で僕のことを中心に一回分を割いてくれています。この連載はアニドウの歴史でもあったんですね。


その全文は上記のページで読んで頂くとして、気になるところにコメントを加えさせてもらいます。
基本的にはアニドウという小さな組織のことはアニメ史上そんなに重要視するものほどのことでもないし、ましてやその会長の事なんてねえ....。客観的に見たら、どうでもいいような些末な話題だと僕は思うのですが。しかし、WEBアニメスタイルというヒット数も多い立派なサイトに広く発表された原稿では少しはお応えしないと失礼というものでしょう。

> 新しい会長を選ぶ段になって強烈に手を挙げたのが並木さんでした。

すみません。覚えがまったくありません。でもちょっとありえないように思います。なぜならば、僕はトップに立つ事に当時も今も全く興味がないからです。「そんな馬鹿な」とお思いでしょうが、そうなのです。僕が興味があるのは、上映会でも出版でも「100%自分の好きなようにやる」ことだけです。この目的のためには他人を踏みにじるようなことも言ったりしますし、金も返さなかったり、非難されるべきことをたくさんしています。だから、その辺を暴露する方が面白いと思います。なにしろ35年前のことですので、そう誤解させる言動をしなかったとも言えないのですけれど。上映会でスタッフや客を怒鳴ったり、本当にイヤな奴なんですけれど、上昇志向は今も昔もないのです。
興味がない上に、あえて会長になる"必要がなかった"ということも言えます。富沢さんもご存知なように、相磯さん、湯川さん、半田さんのもとで、僕は好き放題やっていて、上映会の企画なども自分の出したものはほとんど100%そのまま実行できました。高円寺会館でも、カサ・デ・エスペランサでも、伽藍胴でも、当時の会長職の方々から何か止められたとか言う記憶がないのです。プロデューサー的な運営の実権を欲しがったのは間違いないですが、会長になる以前にそのポジションに成り上がっていました。だから1974年の時点で"会長になりたいと強烈にアタックした"というには事実ではありません。

アニドウは僕のアニメーションの学校で、僕は良き先輩たちに囲まれて幸せでスタッフで十分満足していました。相磯さん、湯川さん、有原さん、近藤さん、早川さん、福富さんたちにアニメと酒を教わりました。
だから、先輩を差し置いてのし上がって行く必要はなかったんです。僕の世代が代表としてやって行かなくてはいけない状況になったのは、ひとえに先輩たちが居なくなってしまったからでした。

> でも私には並木さんのその、会長になりたいなりたいという欲望あらわな態度が目に余るものに見えました。小学校のクラス委員の選挙の時などによくこういう、クラスのてっぺんに立ちたいだけの人がいたものですから。

「欲望あらわな」と言えば、当時僕たちは世界のアニメーションを見ることには欲望あらわでしたねえ。あの熱気が懐かしいです。
僕は小学校4年の頃から登校拒否児童(不登校)でした。ほとんど学校に行っていないのでクラス委員の選挙というものを知らないのです。だから、クラスのてっぺんに立ちたいという気持ちはわかりません。小学生から現在まで、基本的に他人と接するのが僕には恐怖なんですよ。大体、人の上に立つなどと言う恐ろしい体験をなぜ自分から求めるのか理解できません。てっぺんに一度でも立てばと誰にでもわかると思います。アニドウのような小さなお山でも。それにしても「だけ」とは見事な一言です。自分のことが揶揄されていても感服します。

> アニ同にはもっと誰にでも公平に接することのできる、理性的な人の方が会長という役にふさわしいのではないかと私には思われました。会長は自分のためにやるのではなく、他の会員みんなのために動く人であってほしかったのです。従来の会長たちのように。

確かに僕は不公平な人間です。理性的でもありません。他に候補者がいれば良かったですね。
しかし、それは誰なんでしょうか? 石川英明さん?石之博和氏?北島信幸?みなそんな意思はなかったと思いますが.....。
「会長」とかいうといかにもしっかりした組織と思う人も今の読者にはいるでしょう。そのへんのアニドウの実態も説明しないと不親切ですね。
会員はたぶん名簿上70~100名前後。上映会に参加数する人は40~80人。会費が400円ほど。世話人会という名の幹部4~8人が最高意思決定機関でした。副会長などはいません。もちろん会長他みな無給のボランティア。ワラ半紙の会報の費用も苦しい会計でしたね。時間的に余裕のあるテレビのアニメーターと少しの学生が喫茶店に集まって時々映画会をやる、そういうしょぼい同好会がアニ同でした。対外的には全く無名です。だから、「アニドウです」といって何か便利になることもなく、ましてや「会長だ!」と言うだけで仕事が来たり、みんながへへーっと這いつくばることもありません。
会長というのは、まあ便利屋みたいなもんですね。現在のオープロの社長みたいに。今考えると、僕は先代半田会長の人の良いのにつけ込んでかなり好き勝手に相談もせずに上映会の企画を決めたり、知らせを出したりしていました。こうしたことは責められてしかるべきでしょう。

> だから冗談まじりに古代の陶片追放制度のように会長にさせたくない人を上げましょうよと提案してみたりもしたのですが、並木さんの猛烈なオレがオレがアピールに太刀打ちできる人がいようはずもなく、1974年7月の世話人会で第4代会長は並木さんに決まりました。

そんな提案がありましたか!?それでは今からでも「小松沢くんの追放に1票」。上映会は俺にやらせろ、とか、会報の編集は俺がやる!とか、会場は俺が決める、とかは度々アピールした覚えはあります.......でも、心から会長職になりたいと思ったことはありませんよ。
会長になると、いったい何が得られたのでしょう?何の特典もないですよね、資金はないし、事務所もない、車もないし、名誉もないですね....どうも目的がわかりませんね。「アニドウ会長」という立場で、利便を得たことはこれまで35年間何もありません。

> この時点でまさかそれから今日までの長い間、並木さんが会長の座を手離さず、ついには有限会社まで作って私物化してしまうとは、誰も思ってもみなかったことでしょう。税金対策等と理由づけはいくらもできますが、あくまでも私の目には私物化としか映りません。

今日までの長い間(35年以上これからも)会長の座を手離さないことは、僕は確信していました。だって、引き受けてくれる後輩がいないのですから(育てなかった?)。
すでに1974年の時点でアニドウのそれまでの活動の性質は変化していました。アニメーター同士の連帯を深める緩いユニオンを求めた要素は消えて、上映会を頻繁に開く事で研究的な活動に力点が移りました。
面倒見の良い大人のアニメーターが集った古き良きアニ同はその時点で使命を終えて変容していたと僕は思います。
僕はその後始末を今までのろのろとやっているに過ぎません。新生アニドウとして目指したのは国際交流とちゃんとした出版です。"会社"を作ったのは税金対策ということではなく、大きな出版物を作るために印刷屋さん・取次さんなど他の会社と取引をするためです。富沢さんも自分で出版事業をしようとすればそういう方向に行くはずです。同人誌とは動く金がまるで違いますから。

1974年に野望叶って後、自分に課したことはひとつだけ、僕の代でアニドウはつぶさない、ということです。それも看板だけは掲げておくぞ程度の意味ですが。それから35年細々と活動を続け、2007年に「40周年記念のパーティ」を開催しました(富沢さんにもご出席頂きました)。先輩たちにお会いして、もうがんばらなくてもいいかな、とちょっと思いました。湯川氏や片野さん、相磯さんたちは「なみきくんじゃなければつぶれていたね」と言ってくれました(もちろんお世辞です)。富沢さんに言わせれば「この程度の活動(私物化?)じゃあなくなった方が良かった」と思われるかもしれません。35年間でいくつかの出版物と看板だけという実績ですので誇れるものは少ないのですが、他の方が会長ならアニドウも立派になったかと言うと(歴史のIFですが)僕は否定的です。

> 現在ではアニドウは並木さんが作ったものと思い込んでいる若い人も多いかと思いますが、実際には並木さんはこの連載でも66回目にしてようやく会長として登場してきたに過ぎないのです。これを読まれた方はそのことを、そして並木さん以前の、会員のための会長だった方々のことを覚えておいてほしいと思います。

いや、現在ではアニドウそのものを知らない若い人が多いかと思います。66回まで全てがアニドウの歴史だったとは思いませんでした。いっそ、僕の出番は頭皮に刻んである666回でもいいです。
2007年の「アニドウの歩み40年」という冊子で歴代の会長写真を掲載するなど、先輩に敬意を払う事は忘れていないつもりです。先輩も大事ですが、後輩のことも考えてあげてほしいです。今は二人の、いや独りかもしれないアニドウですが、富沢さんがアニドウを離れて約30年の間、こんな僕でも支えてくれた多くの人々がいます。たとえば、武鑓さん、山田さん、日野さん等のアシスタント嬢、角川くん、金子くん、石橋くん、石井くんなどのアニドレイ軍団、北島、石之、鈴木(周)さんたちアニドウの仲間、ついでに友永、片山氏など友人一同....。富沢さん以後のこうしたスタッフ、王位を簒奪した会長に仕えてアニドウを支えてきた人々のことを今からでも知ってほしいと思います。

> 何と言っても私はアニ同そのものを深く愛していましたから。

その愛すべきアニ同は残念ながら今やひとかけらもないと言うほかありません。なにしろ僕が"私物化"して35年です。先代とは違う独裁的な指導の下での35年に人民は希望を失って去って行きました。今のアニドウとは僕とスタッフS嬢の二人を意味します。私物化も何も実際「僕」しかいないんです。
平会員が一人も居ないのに「会長」と言いましてもむなしいですね。しかも、こうなることは1974年の時点で僕には判っていたことです。衰退していくことは自明でした。それなのに「会長になりたい」なんてアピールするとは、本当ならまさに気狂いですね。

僕の性格を誤解しているのではないかという疑問は富沢さんがミクシィ内に書かれた日記にも気になる所がありました。先日の「金田伊功を送る会」についてです。

> なみきさんの司会は相変わらずぐだぐだで、言わなくともいいことを口走ったりして、もっとイベント進行慣れした人材に任せればいいのにと思ったけれど、こんな大舞台を手放すひとではなし、仕方ありませんね。 

そんな、と思ってビデオを見直したら司会はぐだぐだでした。その通りでお詫びするほかありません。でも、他の人に任せてという意見には賛成できません。代わりがいないのですよ。当日まで進行が大きく変わるし、当日にも変わりますしね。変えているのは僕ですが、他にもいろんな要素が混じるので、これを事前に他人が把握して進行させるのは不可能でした。
それで最初から司会は僕がやると決めてやったんですが、まあ、やむをえない選択だったと構成者としは判断しています。
お言葉ですが"こんな大舞台を手放すひと"だと自分では思っています。これまでにも「近藤喜文の世界(追悼)」「もりやすじの世界」など大きな催しには慣れた人材に司会を頼んでいます。「40周年」も、片山雅博・はらひろしコンビに頼んだことはお忘れでしょうか。富沢さんが去ってから30年近い最近のアニドウの歴史にも注目してくれると判ることです。
嘘つけと言われそうですが僕はスポットライトを浴びるのは嫌いです。僕の"舞台"はその舞台ではなくもう少し大きいものでして、「金田伊功を送る会」でいえば、命日から今日までの準備と後始末の約3ヶ月の毎日が"舞台"ですね。会場選定・打ち合わせ、構成、ビデオ編集、カンパなど資金面での手当や、冊子とTシャツをスタジオ雄さんに丸投げしてお願いする等々、とにかくあらゆることを決定する立場、こういう裏方で汗をかくポジション(独裁的ですが)は手放しません。自分が発意して責任を感じていることですし、どういう会にするかという想定が材料を持っていることで僕にしかイメージできないまま進行しなくてはなりうませんでした。結果的に良い会だったと思われる方が多くてうれしく思いますが、もっとぼろぼろの会だったらどうなっていたか、考えるだに恐ろしい賭けでした。金銭的にも保証がないものでしたし。
こちらの方の一般には目に見えない"舞台"で権力欲を丸出しにして醜いというのなら、その批判は頷けます。
「送る会」を企画・主宰した僕の動機をどう捉えるか、「友人を悼む気持ちから」か「巨大イベントをしきる好機と喜んで」かは断じるその人の品性の問題として、ご自分にかえってくる評価になるのではないでしょうか。

それで思いついたのですが、何か大仕事を引き受ける時にいつも、「僕はアヴェリーの"むっつりワン君の早業"(Northwest Hounded Police 1946) だなあ」と感じています。
つまり「希望者は1歩前へ!」と言われると居並ぶ全員が(ドルーピーを残して)1歩後ろへ下がるあの場面です。結果、弱々しいドルーピーが選抜される、というギャグ、あれが僕のいつもおかれた状況ではないでかと思います。これまでの大きな転機ではそんなことばかりでした。
たとえば「三国志百態と人形展の開催」「杉本フィルムコレクション」「オープロダクション」「金田伊功を送る会」などなど。地方在住で事情を知らない富沢さんに言わせれば、たぶんオレがオレがで名乗りを挙げたと一刀両断されましょうが、これが僕には「むっつりワン君の早業」だったんですねえ。
なにも「心底いやいや引き受けていた」と嘆いているわけでもありません。どれもたまたま近い位置にいて、周囲の了解を支えに、成算がないまま無謀に引き受けたというのが実情なんです。
おっしゃる通り僕はトップの器ではなく、三番手位の、会社で言えば制作部長みたいなポジションが相当の人間です。トップにもっと人望がある人、アニドウなら相磯さん、オープロなら村田氏、コレクションなら杉本さん....そういう人の下で好きなことをやるのが理想ですね。でも、みなさん忙しくなったり亡くなってしまったので。誰かがやらないといけない時、近い所にいてお世話になった恩義を感じていれば引き継ぐことに逃げはしたくない、そういう気持ちです。これからも友達の遺産や資料があって「自然にこちらへ流れて来たら」ぜひ"私物化"したいと思っています。

今回の富沢さんの僕への評価を肩書き風にまとめれば、四代目会長改め、今後

「猛烈なオレがオレがアピールの欲望あらわな態度が目に余る不公平に人に接する非理性的で自分のためにやるばかりで私物化し大舞台を手放さないてっぺんに立ちたいだけのふさわしくない会長」とでも名乗るべきでしょうか。

結局、今回の「その66」はいつも知性的な文章の冴える富沢さんにしてはおかしなものを感じるのです。断罪する筆致は見事ですが、富沢さんがアニドウならぬアニ同を愛するあまり間違った思い込みをしていると感じるのは僕の旧悪が暴かれているからだけではないでしょう。いきなり非難を浴びせられ、ただびっくりする内容でしたが、これは自分の今後を考える良い機会とも思ったのであれこれ感想を書きました。
もうアニドウや僕のことはけっこうですので、今後は他の話題でご健筆をふるっていただきたいと思うばかりです。
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57年の歳月の末、これからもこれ以上の自分にあう煎餅はないと思うほど惚れ込んでいるこの煎餅が写真の醤油味の濃い堅焼き煎餅です。
中野区上高田2-53-8、荒井薬師前交差点にある「味好堂(みよしどう)」の厚堅焼です。一枚120円と高いのが難ですがそれだけの価値はあります。8についた縁日に行くと10枚で1枚プレゼントあり。並焼き70円もなかなかです。通販もしてくれるようですが、僕は買いに行くことが楽しみです。西武新宿線の荒井薬師駅からも行けますが、僕は中野サンプラザ、ブロードウェイの後から歩いて行きます。薬師ロードというすてきな商店街を抜けて。古本屋にひっかかったり、早稲田通りにはブックオフがあったり、時間つぶすにはことかきません。そんなにヒマではありませんが。
とにかくこれからご来社される方が手みやげを考えていたら、洋菓子なんぞはやめて、この煎餅をくれませんかねえ。

最初のアニメ専門商業誌としての誇りをかけて、金田伊功特集を二ヶ月続けるアニメージュ。(その前にも速報として1Pカラーで死去を伝えるなど)さすがです。
今月号には「金田伊功を送る会」の弔辞の採録が載る予定で、そのテキストが来たので、駅前のドトールで野田卓雄さんと待ち合わせて目を通していただきました。
他の方々の分も弊社スタッフS嬢がきびしくチェック。
楽しみです。
アニドウもボーっとしていられないので会報1/30にレポートを載せようと編集中です。
弔辞の全文はもちろん、ご遺族の挨拶とか司会の戯れ言も含めて掲載予定ですが、なかなか時間がないのでたぶん年内ぎりぎりに発行されることになるでしょう。

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